有罪モラトリアム

僕は自己分析では、極端さと曖昧さを持つ人間だと思っています。
物事はハッキリ白黒つけられる事ばかりではないと思っているので、決着をつけずに曖昧な状態で抱えておくことが将来の可能性になると思っています。
様々な取り巻く要因の変動でどちらかに傾く流れが出来ますが、それが自然な流れで、また本流でもあると思います。
けれどそれと同時に、自分の意志をハッキリさせることで物事を動かして流れを作るということが最適解だとも思っています。
行動が明瞭になるという最大の利点があります。
つまり、気持ちが定まらない内はハッキリとした行動はとれないから、自分の気持ちだけで動かしてはいけない時に、曖昧な状態を抱える負荷への耐久性が大事である、ということです。
自分の気持ちだけで走れる時には、上手く物事が進んでいなくても納得しているものです。
だからストレスは小さい。
他者の気持ちを慮り平衡を保とうと自分が一歩引いても、良くない結果が出て更に自分へのストレスが募るような悪いことばかりの時に平気な顔していられるかは甚だ怪しい。
そのモヤっとした気持ちに着地点はありません。
ならば、失敗しても周りを不幸に巻き込んでも思うがままに生きて自分だけはスッキリしていればいいのかと言えば、それこそ違うと思う。
だから人は忍耐を大事にするのだと思います。
今耐えるのは長期的戦略。
今思い切るのは短期決戦。
その狭間はいつだって優柔不断。
僕は優柔不断を弱さだとは思わない。
あらゆる可能性を残したいから結論を急げないのだ。
だからこそ、決めた時は強い。
そこへ至る過程が大事なのは言うまでもないことです。
時が過ぎれば結果だけでモノが言えますが、取り組んでいる今にとっては一つ一つの要素を尊重することが大事です。
だから迷いながら悩みながら考えながら苦しみながら伸ばした手で掴み切れない状態でいつまでもいるのです。
掴んでしまえば決定します。
決めたくない、という曖昧な心が他人を苦しめるのならそれは良くない。
だから決着へと少しずつ考えを進めます。
気持ちと折り合いをつけながら。
少しばかり時間がかかることは仕方がないと思いたい。
だけど、その少しの時間こそが最も重要であるという厳しい現実。
だから、人は忍耐があればいいわけではなく、覚悟の方が遥かに大事だということを学びます。
そしていつもそれを問われる。
待った無し。
自分だけが止まる。
意味無し。
決断とそれに対する覚悟。
人を人たらしめるのはそれしかない。
のかな?
決めきれない弱さもまた人です。
時間が必要な時もあります。
その時間の純粋さはいつかきっと支えになるはずです。