下弦の三日月、その調べ

僕は昔から夜が好きです。
静寂が落ち着くし見たいものだけを照らせば余計なものは目に入らない。
白日の下、全てを晒されて喧騒に疲れた心と体を癒してくれます。
他者との対話も一旦は区切りとなって、そのことについてじっくり考えることができます。
自分の言動を振り返って整理することができます。
本を読んだり音楽を聴いたり映画を観たり、別の世界に没入して頭を空っぽにできます。
お酒を飲んで緊張を解いて不安や心配事を麻痺させます。
いつだって夜は僕の味方です。
嫌なことから逃げはしないけど、少しだけルーズになって一時避難します。
間を置くと何かに気づいたり見えてなかったことが見えたりアイデアが浮かんだりします。
いつも夜が与えてくれます。
夜にしか咲かない花があるとい言いますが、僕らの心にもそれはあると思います。
難題はすぐには解けない。
抱え続けるのも疲れる。
でも急ぐことはない。
もう30年も過ぎてる悩みをすぐに解く方が無理ってもんだ。
解き方がわかったような瞬間、手を伸ばしてすぐに掴もうとするとどうやら間違えるらしい。
夜は落ち着けとなだめてくれる。
頭で思うことと心で想うことが乖離するとき、人は苦しみます。
この差を縮める作業には人間性が表れます。
全てを手にすることは出来ないもので、何かを選び何かを捨てなければならなかったりします。
なかなかどうして欲張りなもので、何も捨てずに新たに何かを得ようと考えてしまうのはずるいことですね。
自分の許容量を見誤っています。
うまく出来る人もいるんでしょう。
人それぞれです。
たぶん、人の度量や器というものは成長とともに変わるのだと思います。
大きくも小さくも良くも悪くも。
自分を基準にするか世間を基準にするかのスタンスで大きく変わるのだと思います。
きっと誰でも自分を基準に生きていきたいと願ってます。
それは叶わない、世間には敵わないといつしか知り、少しずつ自分を小さくしていきます。
そんなのは嫌だと抗って生きるのが、表現者や活動家や起業家なのだと思います。
でも動機の本質は抗うことではなく、主張したいだけです。
僕の行動原理もここにあります。
主張が抵抗と同義になってしまうことがままあり、それが周囲に誤解されると追い詰められて自分でも本質を見失います。
だから、いつでも自分を保つため、僕は夜更かしをします。
そう。
夜は自分と向き合う時間です。
日中は出るのです。
外に出て、人に会い、世に触れ、無知を知り、恥をかき、傷ついて、心を砕いて、身体を酷使し、頭が混乱する頃、自分に問いかけるため夜に帰るのです。
それでも、主戦場が日中であることを間違えてはいません。
ここを履き違えるとただの逃亡です。
明日、戦うため、今日の夜を休むのです。
夜は戦っちゃいけない。
夜戦が必要な時もあります。
でも、出来るだけ回避するべきです。
何も見えなくなってしまいます。
何もわからなくなってしまいます。
自分なんて無くなります。
夜に生きる者達には逆の考えがあるのでしょう。
それもまたそれぞれでいいと思います。

夜は置き換えることが出来ます。
本当はそれが欲しい。

それならいつでも戦える。
そしたら最強。