表現の不自由

新聞には立場があり、その立場が全てです。
そのため、どの立場を取っているかを理解していれば、どの記事を読んでも中身は同じだと言えます。
ある社は政権批判にやっきになり、一方では政権に迎合する。
その読み方、読み取り方がわかります。

それでも各社個性はあります。
選ぶ基準はどこにあるのか?

わかりません、全く。
自身の思想信条と合致するかどうか?
昔はどうかよくわかりませんが、複雑な事情が入り組んだ現代社会で右や左とはっきりと意思を表明して立ち位置を明確にするというのは難しく感じます。
一部では保守でも別のところで改革を望む。
そんなことはざらで、じゃあそれを代弁してくれるような第三、第四の立場があるのかというと、ありそうでない。
結局、好みとしか言いようがないです。

僕はある程度の期間で取る新聞を変えます。
傾倒しない予防策でもあります。

今は朝日ですが、一面の下の方にある名物記事がつまらなく腹が立つことも多いのでもう変えようかと思ったりしますが、苛立つというのも大事なことかと思い、もうしばらく朝日のままでいいかと思っています。
コラムや連載や特集などでは面白い記事があります。

言論が日和っていると一部で言われているようです。
昨年襲撃された宮台氏ははっきりと暴力に屈して言葉を変えるようなことはしないと言っています。
委縮せず言うべきことを言わなきゃいけないと多くの言論人が意思表明しています。
この不穏な時代に、日和るどころか過熱しているように感じます。

表現に生きる者たちが大切にしている言葉。
言葉を軽んじる表現の外の者。
自身の表現に飲まれる強者。
表現すら許されない弱者。
僕は自由の様で不自由だな。