十代の衝動

十代の多感な時期をどう過ごすかは、その後の人生を大きく左右します。
でもそれは結果論でしかなくて、事前に検証などしようがないことです。
ただ、統計は取れていて、成績、生活態度、部活動、委員会活動などの評価が高ければ、成人後、社会人になっても職業や年収は上級・流であると。

くそったれです。

データが有ってそうすれば上手くいくなんて、大人は言いたがる。
それは成功であれ失敗であれ経験に基づいた発言ではあるものの、同じことを当時大人にされたことを忘れてしまって言っています。
データなんて掘り下げればいくらでも遡れるし、ある程度の王道の歩き方は示されるものでしょうが、そうできなかったのはなぜなんだ?
そのナゼこそが僕であり貴方でありあの人であろう。
つまりその人そのもの。
だったらこどもの人格を無視してはいけない。
特定のこの子なんだから。
それはかつての自分であろう。

苦しみ悶える十代の意味は大人に成らなければわからないし、大人に成れずにわからないままでいる人もいます。

僕は四十代になって、ようやく十代、二十代の苦悶の答えが少しだけわかりました。

ある少年が悩んでいます。

子供の頃から漫画が好きで自分も描きたいから描いている。
中学の時には唯一人黙々と漫画を描く事に夢中でそれが全てだったと。
高校になると、周囲の子が部活で汗をかいてその後ファミレスでだべっていつも一緒にいて休みの日にもどこか遠くまで一緒に遊びに行くような子ばかりで、自分は漫画を描いていれば良かったはずなのに気付けば周囲の子達に嫉妬していると。
だからといって、そうゆう子達と同じ様になりたいわけではないと。
だったらこの嫉妬はなんだ!と。

一般的に健全と言われる生き方をできなかった者には、その者だけの価値観や考え方や判断基準を持っているもので、それだけが心の支えの筈なのにそれが揺らいでしまう。

それは自分を見失う危うさですが、見方を変えれば変化のきっかけです。
変わりたいなら辛くないけど、少し外れた自分を許して認めて好きだったりすると苦しいばかり。

悲しいことに、こんな悶絶級の苦しみと折り合いをつけてみんな大人になってしまいます。
どこかに葬るのか封じ込めるのか、ただ忘れるのか。

僕は忘れた人間のようで、表現の道を歩いていた時の激情はどこにしまったのかも忘れてしまった。
でも、この少年の悩みを聞いてハッとしました。
こんな自分を叫ぶような激しい想いではないけど、自分を殺したわけではない。
その時々の判断で少しずつ自分を変えていたけど、失くしたわけでも捨てたわけでもない。
いつか、の為にしまいこんでいたんです。
当時の激情は色も形も熱も重みも何もかも変わってしまったけど、確かにまだ有って、知らずに取り戻していました。

今、僕はこの少年と真正面から向き合えるし抱きしめたい。
そのまま行けと言いたい。
そのままで居れなくなる日が来ても恥じることはないと伝えたい。

何でもできる気がするし何もできないような気もします。
今も僕を突き動かす十代の衝動。
まだ生きていました。