日常が非日常を上回る

僕は若い頃にメカやロックやSFという世界によく没入しましたが、何故そうだったのか、そうなったのか、その導入はイマイチよくわかりません。
端的に言えば、日常に退屈していて、それを忘れられたからなんだと思います。
たいして深掘りして自己分析する様な事はしませんでしたが、平凡な自分が退屈な日常を招いているという本質的には気が付いていた気がします。
小中学生の日常なんてものは箱庭の中の一部でしかないのになぜかそれが全てで、だけどその全てに外側がある事だけは直感としてわかっていました。 
その外側に手を伸ばしていた、という行為なんだろうと今は理解・納得します。
目に見えるものというのは見えているから現実で確かにそこに在るのに何故か疑ってしまいます。
痛みというのは心を揺さぶるので疑う余地もなくただ拒絶し遠ざかるか遠ざけるかしていたと思います。
それよりも曖昧な臭いや味や音にいつも惑わされました。
この他者と共感しにくい感覚をどう理解して処理するかは大事なことなのになかなか向き合うのは難しいことでした。
そこに何かしらの解があることはわかっているのに手が出ない。
そんなモヤモヤが、わからないが、没入のスイッチだったのかもしれません。

それも違うとわかってしまった。

日常の方が面白い。
もう逃げ場もない。
いや、いらない。